【2022年版】オーストラリアの有名な建造物 16選

海外旅行のひとつの楽しみと言えば、その土地の文化や生活様式を表したお城や宮殿、教会や橋などの建物・建造物を巡ることですよね。

英国海軍のアーサー・フィリップ大尉率いる最初の植民船団がシドニー湾に上陸した1788年から230年余り。

歴史の浅いオーストラリアにも観光名所として知られる様々な建造物があります。

今回はその中からいくつかご紹介したいと思います。

シドニー・オペラハウス

シドニー、またはオーストラリアのシンボル的存在として親しまれているのが、このシドニー・オペラハウスです。

白い貝殻が重なるような、またはヨットの帆が風にはためくかのようなシドニー・オペラハウスの外観は、デザイン・コンテストに応募された233件の中から選ばれたデンマークの建築家、ヨーン・ウツソン氏の設計案が基礎デザインとなっています。

1959年に着工したシドニー・オペラハウスは1963年の完成予定から大幅に遅れ、工事費用も当初予算より大幅に膨れ上がりました。

さらに新たに選出された州政府の面々と協力関係を築けなかったウツソン氏が建築設計者から辞任したため、そのあとを継いだ数人の建築家たちの手により、予定より10年遅れ、1973年に完成しました。

総工費は当初予定された700万ドルの14倍以上にもなる1億200万ドルに達したと言います。

内部には収容人数2679席の「コンサートホール」を始め、大小5つのホール/ シアターと5つのリハーサルスタジオ、4つのレストランと6つのバーがあります。

ちなみに「コンサートホール」内には、世界最大級の機械式パイプオルガン、「グランドオルガン」が鎮座しています。

建物の高さは183m、横幅は120m、面積は1.8ヘクタールとなっています。

建物を象徴する白いシェル状の屋根にはスウェーデン製のタイルが105万6000枚使われています。

シドニー・オペラハウスは2007年に開かれた第31回世界遺産委員会で世界遺産登録されました。

今日ではシドニー・オペラハウスはオーストラリアを代表する観光地になっており、毎年820万人以上の旅行者が訪れています。

また世界で最も忙しい劇場にもなっており、年間363日、2000以上の公演が行われ、150万人以上の観客がコンサートや観劇に訪れています。

シドニー・オペラハウスを観光する場合、様々な館内ツアーに参加することができます。

約1時間の「オペラハウス・ツアー」では、いくつかのホールを巡るほか、歴史や音響技術について学ぶことができます。

同じく約1時間の「アーキテクチャラル(建築学)・ツアー」では、1950年代に設計されたシドニー・オペラハウスの建築学的背景や工学・技術的側面を学ぶことができます。

少人数のグループで巡る約1時間の「ビヨンド・ザ・ステージ・ツアー」では、普段は見ることのできないバックステージ、所謂、舞台裏を訪れたり、隠れたエピソードを聞いたりすることができます。

その他にもお子様向けのツアーがあったり、「テイスト・オブ・ザ・ハウス」と呼ばれる館内ツアーとオペラハウスのレストランでのお食事がセットになったツアーも用意されています。

また現在、シドニー・オペラハウスでは夜間にプロジェクション・マッピングが行われています。

これはシドニー・オペラハウスの白い屋根を利用した、プロジェクターによる映像投影です。

シドニー湾の夜景の中に浮かび上がる幻想的な映像は、観光客のみならず国内外の多くの人々から高い人気を博しています。

建造物名

シドニー・オペラハウス (Sydney Opera House)

場所

Bennelong Point, Sydney NSW 2000(地図)

Webページ https://www.sydneyoperahouse.com/

シドニー・ハーバー・ブリッジ

オペラハウスと並び、シドニーの顔とも言えるのがこのシドニー・ハーバー・ブリッジです。

オペラハウスを望むシドニー湾に建ち、シドニーと北部のノースシドニーを結ぶ交通の要として機能しています。

コートハンガー(コート掛け)」というニックネームは、その美しいアーチ型の曲線に由来しています。

ニューサウルウェールズ州公共事業局のジョン・ブラッドフィールド氏の監督のもと、1923年に着工、1932年に完成しました。

ブラッドフィールド氏は1914年に「シドニー・ハーバーブリッジと大都市鉄道建設プロジェクト」の主任技官に任命されました。

同年、勃発した第一次世界大戦の終戦後、ブラッドフィールド氏は世界を巡り、プロジェクトの入札業者を探しました。

また、幾多ある橋の形状から、アーチ型を採用することとし、公共事業局にてアメリカはニューヨークのヘル・ゲート・ブリッジをモデルとして基礎デザインを作成しました。

9年という歳月と625万ドルという莫大な費用を費やし、シドニー・ハーバー・ブリッジは完成しました。

503mという全長は、アーチ型の橋としては世界で8番目の長さとなります。

また、水面から134mという高さは鉄製アーチ型の橋としては世界最高となります。

現在は8車線のハイウェイ、シティレールの鉄道線路、自転車専用道、そして歩道が設置されており、世界一、車線が多い橋ともなっています。

シドニー・ハーバー・ブリッジは緩衝地域として、シドニー・オペラハウスと共に2007年に世界遺産登録されました。

観光としては、王立植物園内にある岬のミセス・マッコーリーズ・ポイントから、オペラハウスの全景と共に写真に収める、というのが定番となっています。

また、2006年に開業したブリッジクライム・シドニーでは、ハーバーブリッジのアーチ型の鉄橋の上を登ることができます。

昼間、トワイライト、夜間、と時間によって異なるクライムが楽しめ、中でも夕日をバックにシドニー・ハーバーブリッジの上からシドニー湾を見下ろせるトワイライトは人気のコースとなっています。

建造物名

シドニー・ハーバー・ブリッジ (Sydney Harbour Bridge)

場所

Sydney Harbour Bridge, Sydney NSW 2000(地図)

ブリッジクライムWebページ https://www.bridgeclimb.com/

クイーン・ビクトリア・ビルディング (QVB)

QVBの愛称で親しまれているこの建物は、1898年に着工、1898年に完成しました。

長さが190m、幅が30mあり、シドニー市役所(Sydney Town Hall)に隣接しています。

デザインはスコットランドからの移民で建築士のジョージ・マクラエ氏によるもので、もともとゴシック様式、ルネッサンス様式、クイーン・アン様式、ロマネスク様式と、様式の異なる4つのデザインが描かれました。

シドニー市役所により、最終的にはロマネスク・リバイバル様式が採用されています。

元は市場として想定されたこの建物は1898年のオープン当初、仕立て屋、反物屋、ヘアドレッサー、花屋、コーヒーショップから展示場、コンサートホールが立ち並びました。

しかし200もの店舗スペースが予定されていたにも関わらず、オープン当初はわずか47店舗しか賃貸契約がありませんでした。

1905年までに20店舗ほど増えましたが、やはり当初の予定には届かず、1910年に市場はシドニー市南部のヘイマーケット(現チャイナタウン内)に移設されました。

その後、改装工事を重ね、シドニー市図書館や行政施設として利用されていた期間もあります。

それでも建設費用との採算が取れずにいたこの建物は常に取り壊しの危機にさらされてきました。

1967年になり、オーストラリア・ナショナルトラスト協会によってやっとその歴史的資産価値が見直されました。

1984年から2年の月日と8600万ドルという費用が掛けられ、マレーシア企業によりQVBはショッピングセンターへ生まれ変わりました。

3階建ての建物の内部には、ブティックやハイブランドの洋服店、宝飾店などが並ぶようになります。

建物の運用は軌道に乗り、その後20年あまり買い物客を魅了し続けます。

さらに2008年より4800万ドルを掛けた改装工事によりエスカレーターが設置され、店舗スペースの装いも一新し、現在に至ります。

建造物名

クイーン・ビクトリア・ビルディング (Queen Victoria Building/ QVB)

場所

455 George Street, Sydney NSW 2000 (地図)

Webページ https://www.qvb.com.au/

セント・メアリー大聖堂

シドニーの街の中心地、ハイドパークの北東に隣接する、二つの尖塔を持つ巨大な教会がこのセント・メアリー大聖堂です。

最初の基礎工事が始まったのは1821年10月でした。

ジェームス・デンプシー氏により建設された教会は当初、十字の形をしたシンプルなゴシック建築でした。

1835年にはジョン・ポールディング氏がオーストラリアで初のローマカトリック教会の大司教になっています。

1851年にオーガスタス・ウェルビィ・プギン氏のデザインにより建物は改装されましたが、1865年の火災により焼失してしまいます。

現在のゴシック・リバイバル様式の大聖堂は1868年にポールディング大司教により最初の礎石が置かれたものです。

その後、63年間という紆余曲折の時を経て、1928年にセント・メアリー大聖堂は完成しました。

現在、ハイドパークから見える建物側面のゴシック様式の窓は、尖ったアーチ型と網目状の模様が特徴です。

屋根の輪郭は穴の開いた欄干、高窓の上部の装飾的な切妻飾り、フランス流の小さな屋根窓をいくつも施した角度の急なスレートの屋根でまとめられています。

ハイドパークに面した翼廊は、多くのフランスの聖堂で使われているように一般の出入り口になっており、ドアに豪華な装飾が施されています。

鐘を讃える尖塔はずんぐりした形ながらもその上にそびえる、かぎ針編みを施した円錐状の先端部分により、上品な印象を与えています。

尖塔の高さは74.6mあり、セント・メアリー大聖堂をオーストラリアで4番目に背の高い教会としています。

建物の内部は黄金色の砂岩でできており、その高い天井を支える巨大なアーチ型の柱の列が重厚で荘厳な印象を与えています。

正面、主祭壇の奥には色鮮やかで華やかな巨大ステンドグラスがあり、思わず目を奪われます。

このステンドグラスには聖母マリアの戴冠のストーリーが描かれています。

この他にも「ステーションズ・オブ・ザ・クロス」と題された油絵、聖母マリア像、ジョージ・ワシントン・ランバートによる「名もなき兵士」の彫像など貴重な美術品が数点、奉納されています。

建造物名

セント・メアリー大聖堂(St. Mary Cathedral)

場所

St. Mary Road, Sydney NSW 2000 (地図)

Webページ https://www.stmaryscathedral.org.au//

フリンダース・ストリート駅

メルボルンを象徴する建物と言えば、このフリンダース・ストリート駅の黄色い建物ですね。

メトロ・トレイン・メルボルンの近郊列車の中央駅であるこのフリンダース・ストリート駅は、1854年9月に、オーストラリア最初の鉄道駅として生まれました。

「メルボルンの起点」と呼ばれた当時の駅は単線で、30mほどのプラットホームがひとつあるだけでした。

1880年代に入ると駅は手狭となり、中央駅として生まれ変わるべく計画が進められていきます。

1900年になり、メインエントランスの上部のドーム型の屋根を讃え、エリザベス・ストリートの入り口に時計台を設けたフランス・ルネッサンス様式の、「グリーン・ライト」と名付けられた、鉄道会社職員たちのファウセット&アシュワースによるデザインがコンテストの一等賞を射止めました。

現在の駅舎は1909年に建てられたものになります。

蒸気機関車の時代が終焉を迎え、電車が初めてフリンダース・ストリート駅より出発したのが1919年でした。

1923年には一日2300本もの列車が乗り入れ、30万人もの人々が利用したこの駅は、世界で一番忙しい駅だと考えられていました。

1956年のメルボルン・オリンピックを控え、1954年には地下鉄もフリンダース・ストリート駅に乗り入れるようになりました。

その後も幾度となく改装と、度重なる金銭的挫折を繰り返し、今日に至ります。

現在のフリンダース・ストリート駅は1910年代の色合いを再現するため2017年に塗り替えられたものになります。

メインエントランス上部の時計は、1860年代には次の列車の出発時間を示すための時計でした。

建造物名

フリンダース・ストリート駅(Flinders Street Railway Station)

場所

Flinders Street, Melbourne VIC 3000 (地図)

Webページ https://www.flindersstreetstation.com.au/

ビクトリア州立図書館

八角形を形どり放射状に並んだリーディングデスク、背の高い真っ白なドーム型の天井、壁にぎっしりと並んだ蔵書、そのスケール感に似つかわしくない静寂。

私たちに日本人にはまるでアニメの世界のような非現実的な空間。

ラ・トローブ」と名付けられたそんなリーディングルームを備えた巨大な図書館が、このビクトリア州立図書館です。

メルボルンの公立図書館として1854年に建てられたこの図書館は、2018年にはオーストラリアで最も忙しい図書館、世界では4番目に来館者の多かった図書館となりました。

200万冊の蔵書、35万点もの写真や原稿、地図、新聞などが収納されています。

現在の建物は1990年から2004年まで約2億ドルを掛けて改修されたものです。

建物を象徴するドーム型リーディングルームは1913年にオープンしたものです。

ノーマン・G・ピーブルス氏によりデザインされたこの八角形のスペースは100万冊以上の蔵書と600人もの閲覧者を収容することができます。

1999年より改装に入り、2003年に「ラ・トローブ・リーディングルーム」と名前を改められました。

この図書館のスワンソン・ストリート側の正面玄関前の芝生はメルボルン市民憩いの場となっており、お昼時にはピクニックランチを楽しむ会社員や学生で賑わいます。

歴史的価値の高い数々の古書や1800年代や1900年代の地図があるだけでなく、オーストラリアのアイコンのひとつともなっている無法者「ネッド・ケリー」が死の直前に警官隊と打ち合った際に身に付けていたお手製の鎧も展示されています。

建造物名

ビクトリア州立図書館(State Library Victoria)

場所

328 Swanston Street, Melbourne VIC 3000 (地図)

Webページ https://www.slv.vic.gov.au/

王立展示館

国会議事堂を思わせる荘厳な佇まい。花々が咲き乱れ、緑濃い庭園を誇るこの建物が王立展示館(または王立博覧会ビル)です。

世界文化遺産に登録されているこの王立展示館は、1851年から1915年の間に行われた50以上もの国際博覧会のひとつとして、1880年に建てられました。

26ヘクタールもの広大な土地に、150メートルという横幅で建てられています。

デザインは、メルボルン市庁舎やビクトリア州立図書館も手掛けたジョセフ・リード氏によるものです。

レンガ、木材、金属、スレートにより建てられており、ビザンチン、ロマネスク、ロンバルディック、イタリアン・ルネッサンスの各様式を取り入れており、オーストラリア最初の大陸ヨーロッパ風建築とも言われています。

1880年から1881年にはメルボルン国際博覧会を招致し、1888年にはヨーロッパ人のオーストラリア入植100周年を記念した、百周年国際博覧会の会場にもなりました。

1901年5月9日には第一回オーストラリア連邦議会の開会式も同建物内で開かれました。

その後、連邦議会はビクトリア州議事堂へ移動し、ビクトリア州議会がその後、26年間に渡りこの王立展示館で開かれました。

その後、幾多の焼失や取り壊しにより建物の一部を失いましたが、「グレート・ホール」と呼ばれるメインの建物は損壊を免れています。

1851年からの国際博覧会ムーブメント中に建てられた中で最も保存状態の良い建物として、この王立展示会は2004年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。

直近では、新型コロナウイルスに対するメルボルン市の大規模ワクチン接種センターとして利用されています。

建造物名

王立展示館(または王立博覧会ビル/ Royal Exhibition Building)

場所

9 Nicholson Street, Melbourne VIC 3000 (地図)

Webページ https://museumsvictoria.com.au/reb/

セント・パトリック大聖堂

金色の尖塔と濃灰色の建屋でメルボルン中心地に存在感を誇る巨大な教会がこのセント・パトリック大聖堂です。

1848年に聖アウグスチノ修道会が修道士であったジェームス・グールド氏をメルボルンで最初の司教に指名しました。

オーストラリアでは4番目の司教となったジェームス・グールド氏は、イースタン・ヒル地域に5エーカーの土地取得を申請し、1851年、メルボルン創立からわずか16年にしてローマ・カトリック教会の建設が認可されました。

当時、メルボルンのカトリック・コミュニティーの大勢はアイルランド移民に占められていたので、教会はアイルランドの守護聖人である聖パトリキウスにちなんでセント・パトリック大聖堂と命名されました。

メルボルンの教会建築の第一人者ウイリアム・ウォーデル氏により設計されたこの教会は、当時のゴールドラッシュによる深刻な労働力不足に見舞われたため完成が遅れに遅れ、90年近い歳月を経て1939年にやっと完成しました。

1986年には教皇ヨハネ・パウロ2世が公式訪問しています。

横幅こそ103.6メートルとシドニーのセント・メアリー大聖堂に最長の座を譲りましたが、尖塔の高さ105メートルとオーストラリアで最も背の高い教会、そしてオーストラリアで最も大きな教会、の座を誇っています。

夜は外壁がライトアップされるので、さらに神秘的な佇まいを楽しむことができます。

1870年代には聖堂内にパイプオルガンが作り始められ、1880年に完成しています。

現在のパイプオルガンは1962年から1964年に修復されたものとなっており、教会の聖歌隊とともに今もその美しい音色を来訪者へ届けています。

大聖堂の鐘のうち8つはゴールド司教が訪欧の際に購入したもので、8つ合計で35トンもの重さがあります。

1988年にはこれに9つめの鐘が追加され、現在に至ります。

建造物名

セント・パトリック大聖堂(St. Patrick’s Cathedral)

場所

1 Cathedral Pl., East Melbourne VIC 3002 (地図)

Webページ https://melbournecatholic.org/about/st-patricks-cathedral

クックス・コテージ(キャプテン・クックの生家)

メルボルン、フィッツロイ庭園の中に建つレンガ造りのこじんまりとした家、それがキャプテン・クックの生家、クックス・コテージです。

ジェームス・クックは言わずと知れた、1770年にシドニーのボタニー湾に初めて上陸し、オーストラリア大陸の領有を宣言したイギリスの海軍士官にして海洋探検家です。

ジェームス・クックの生家は1755年に、クックの両親により英国イングランドのノースヨークシャー州グレート・アイトンに建てられたもので、1934年10月にメルボルン入植100周年を記念し、イングランドよりフィッツロイ庭園内に移されました。

移動の際にはレンガひとつひとつにまで解体され、253箱と40樽に梱包され海を渡りました。

この生家はオーナーにより売りに出されていましたが、オーストラリア人のラッセル・グリムウェイド氏により落札。

ビジネスマンであり慈善家でもあったグリムウェイド氏はこの家をビクトリア州の人々へと寄贈しました。

1978年にはさらなる修復が行われ、家の周囲にも英国風庭園が造られました。

内部の家具は当時のイングランドの生活を再現して展示されています。

建造物名

クックス・コテージ(キャンプテン・クックの生家/ Cook’s Cottage)

場所

Fitzroy Gardens, Wellington Parade, East Melbourne VIC 3002 (地図)

Webページ http://www.fitzroygardens.com/Cooks_Cottage_History.htm

キャンベラ国会議事堂

オーストラリアの連邦議会が開かれるのがキャンベラにあるこの国会議事堂です。

現在の国会議事堂はキャピタル・ヒルに建てられており、1988年5月9日にオープンしました。

当時の金額で11億ドルもの巨額を投じて建設されました。

川をせき止め湖を作り出したり、機能的に道路を配置したりと計画的に設計された都市・キャンベラの、放射線状に伸びる道路の中心にこの国会議事堂が位置しています。

もともと連邦議会は1927年までメルボルンにて開かれていました。

1927年から1988年までは現在の国会議事堂の手前に建っている白い建物、旧議事堂にて議会が開かれていました。

現国会議事堂には4700もの部屋があり、議事堂の大部分は一般に公開されています(現在はコロナ渦により一時休止中)。

メインのホールには大理石の階段があり、グレート・ホールと呼ばれる大議事室に続いています。

大議事室には大きなタペストリーが掲げられており、下院の会議場は緑をテーマにし、上院の会議場は赤をテーマにして装飾されています。

ふたつの会議場の間はメンバーズ・ホールとなっており、こちらは一般公開はされていません。

大臣棟にはオーストラリア首相のオフィスや他の大臣の執務室があります。

建造物名

国会議事堂(Parliament House)

場所

Parliament Drive, Canberra ACT 2600 (地図)

Webページ https://www.aph.gov.au/

ブリスベン・シティホール

ブリスベンのランドマークとなる大きな時計台と神殿を思わせる花崗岩でできたベージュ色の豪奢な建物。

それがブリスベン・シティホールです。

ローマのパンテオン神殿を模したとされる講堂といくつかの小さなレセプションルームを擁しています。

講堂には大きな円形のホールがあり、1600人もの人を収容することができます。

この円形のホールの上部には青銅製のドームがあり、これは南半球最大のものとなっています。

1914年に当時のブリスベン市長、チャールズ・モファット・ジェンキンソン氏により現在のキング・ジョージ・スクエアがその建設地に選ばれ、1917年に着工しました。

1930年に公式にオープンし、1980年代に一度、そして2010年から2013年までの二度に渡る改修工事を経て現在に至ります。

イタリア・ルネッサンス様式のこの建物には64メートルの高さを誇る時計台があり、四角柱の尖塔の4面すべてに直径4.8メートルの時計が埋め込まれています。

短針の長さは1.7メートル、長針の長さは3メートルあり、そのウェストミンスター式チャイムが15分ごとに時を知らせてくれます。

キング・ジョージ・スクエアの正面玄関ではキング・ジョージ5世と2頭のライオンの銅像が出迎えてくれます。

建造物名

ブリスベン・シティホール(Brisbane City Hall)

場所

64 Adelaide Street, Brisbane QLD 4000 (地図)

Webページ https://www.facebook.com/EPICUREatBrisbaneCityHall/

Q1(キューワン)

ゴールドコースト、サーファーズパラダイスの青空に突き抜けるようにそびえ立つ青銅色の円柱、それがサーファーズパラダイスのランドマーク、Q1(キューワン)です。

完成した2005年11月からその後2011年まで、世界で最も背の高い居住棟となっていました。

2021年現在も世界で11番目に背の高い居住ビルディングとなっています。

尖塔も入れた高さが322.5メートル、屋根までの高さが245メートルとなっており、77階と78階が展望デッキ「スカイポイント」となっています。

スカイポイントはサーファーズパラダイスのビーチから230メートルの高さに位置しており、一度に400名が収容可能となっています。

屋根までの高さで比較した場合、オーストラリアにはメルボルンの「オーストラリア108」(屋根の高さ316.7メートル)、「ユーレカタワー」(屋根の高さ297.3メートル)などがありますが、世界基準は尖塔までを含めた高さで比較することとなっていますので、このQ1が現在もオーストラリアで最も背の高い建物となっています。

その特徴的な外見は、シドニーオリンピックのトーチとオペラハウスからインスパイアされてデザインされています。

またその名称「Q1」は1920年代に活躍したスカル(ボート競技)のオリンピックチームの愛称、Q1から来ています。

Q1はコンドミニアム型の宿泊施設として「Q1リゾート&スパ」の名称で営業しています。

リゾートは2つのラグーンプール、ジム、スパ、ミニシアターを備えており、宿泊のルームカテゴリーは1ベッドルーム、2ベッドルーム、3ベッドルーム、4ベッドルームのアパートメントおよびペントハウスに分かれています。

展望デッキ「スカイポイント」では、展望デッキへの観光の他、スカイポイント・ビストロ + バーでお食事を楽しんだり、命綱を付けて展望デッキの外側を歩く「スカイポイント・クライム」を楽しむことができます。

建造物名

キューワン(Q1)

場所

9 Hamilton Avenue, Surfers Paradise QLD 4217 (地図)

Webページ https://www.q1.com.au/

フリーマントル刑務所

パース近郊のおしゃれな港町・フリーマントルには観光スポットとしては珍しい建物があります。

それがこのフリーマントル刑務所です。

フリーマントル刑務所は、シドニーのハイド・パーク・バラックス、タスマニア州のポートアーサーら他の11の施設と共に「オーストラリアの囚人遺跡群」として2010年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。

フリーマントル刑務所は1851年に、イギリス本国から流刑に処せられた囚人たちのための刑務所として着工されました。

完成したのは1859年で、当時は「石灰岩でできたロッジ」=ライムストーン・ロッジと呼ばれていました。

1868年にイギリス本国から西オーストラリアへの流刑処置が廃止されると徐々に流刑囚人の数は減り、1886年には刑務所は西オーストラリア植民地政府の管轄となって西オーストラリアの囚人が収容されるようになりました。

第一次世界大戦から第二次世界大戦の間はオーストラリア陸軍によりフリーマントル刑務所の一部が利用され、1939年から1946年の間は陸軍の軍事刑務所としても利用されました。

1988年には刑務所内の室温が高温になることを巡り「フリーマントル刑務所暴動」が起き、これを機に1991年11月、フリーマントル刑務所は閉鎖となりました。

6ヘクタールの敷地には今も刑務所の他、守衛詰所、防護壁、コテージ、トンネル、囚人たちが残した芸術作品が残されています。

建造物名

フリーマントル刑務所(Fremantle Prison)

場所

1 The Terrace, Fremantle WA 6160 (地図)

Webページ https://fremantleprison.com.au/

フレッシュウォーター駅

サトウキビ畑に囲まれたクラシックな駅舎、それがフレッシュウォーター駅です。

フレッシュウォーター駅はケアンズ郊外の世界自然遺産の熱帯雨林のジャングルを駆け抜けるキュランダ高原列車の駅のひとつです。

キュランダ高原列車はテーブルランド鉄道線の一部、ケアンズ・キュランダ鉄道線を走ります。

テーブルランド鉄道線は内陸のハーバートン近郊の鉱山とケアンズ港を結ぶ線路として建設されました。

フレッシュウォーター地域を含むケアンズからの最初の8マイルは1887年10月に開業しました。

開業前の1887年3月、そして開業後の1888年1月には大雨による2度の洪水に見舞われています。

こうした苦難を乗り越え1887年から4年の歳月をかけてキュランダ高原列車を建設した開拓者たちに敬意を表し、1984年にこのフレッシュウォーター駅が建てられました。

現在は空港やケアンズ市内のホテルから観光客を乗せてくるツアーバスからキュランダ鉄道に乗り換える中継地として機能しており、「フレッシュウォーター・コネクション」とも呼ばれています。

また、駅舎にはキュランダ高原列車の歴史を紹介する展示室があるほか、85年前の客車を利用したレストラン、「レストラン・パビリオン」があります。

レストラン・パビリオンでは昔ながらのほの明るい電灯と優しい冷暖房に迎えられて、キュランダ観光前に朝食を楽しむことができます。

2018年には改装工事も行われプラットフォームが延長されたほか、駐車場の拡張、バリアフリー施設への設備追加などが行われました。

建造物名

フレッシュウォーター駅(Freshwater Railway Station)

場所

Kamerunga Road, Barron QLD 4878 (地図)

Webページ https://www.ksr.com.au/KSRJapan/Pages/Freshwater.aspx

チラゴー精錬所

ケアンズから西へ205km。

赤土とブッシュに囲まれたレンガ造りの煙突。

1992年にクイーンズランド州より歴史的建造物として遺産指定されたチラゴー精錬所は現在、建物の内部に入ることはできず、駐車場から展望台を繋ぐ遊歩道からその赤土にそびえ建つ煙突と静かに佇む精錬所の全景を見ることができます。

チラゴー地区は1887年に銀の発掘により初めて注目を集めました。

マリーバ地区から150kmもの距離を走る鉄道が1900年に完成すると、大規模な鉱物原料の運び込みとそこから精錬された商品の出荷が可能になったためこの精錬所の建設が始まりました。

その後、1908年には労働者の賃金値上げおよび銅の価格下落、1909年には鉛の価格下落、さらに1911年には当時、鉱物供給を頼っていたイーサーリッジとの間の鉄道の橋が大雨で流されチラゴー精錬所が操業停止に追い込まれたりと数々の不運に見舞われました。

しかしながら1920年には第一次世界大戦により金属や銅の価格が上がり、その施設価値を見直したクイーンズランド州政府により資金援助を受けるに至ります。

建設当初に計画された精錬能力を活かしきることなく、資金援助を受けながら雇用確保のために操業を続けていたチラゴー精錬所はそれでも1932年には創業以来、最大量の銅の生産を達成しました。

ところが今度は第二次世界大戦が始まるとオーストラリア政府は国内の鉱物生産体制の効率化、高収益化の見直しを迫られ、毎年赤字を計上し生産能力の4分の1程度しか稼働しておらず千キロも離れた鉱山から鉱物材料を運び入れる必要のあった“採算の合わない“チラゴー精錬所は事業整理の対象となり、その40年あまりの歴史に幕を閉じました。

この40年の間にチラゴー精錬所は125万トンの鉱物を精錬し、6万トンの銅、5万トンの鉛、184トンの銀、5.1トンの金を精製しました。

建造物名

チラゴー精錬所跡(Chillagoe Smelters)

場所

Chillagoe QLD 4871 (地図)

Webページ https://parks.des.qld.gov.au/parks/chillagoe-caves/about/chillagoe-smelters

ポート・アーサー

ポート・アーサーはタスマニア州の州都ホバートから約60km離れたこじんまりとした街です。

かつてはここにオーストラリア国内最大の流刑植民地がありました。

タスマニア島へのヨーロッパ人の入植は1803年に始まりましたが、当初からヨーロッパ人と先住民族アボリジニとの衝突がありました。

ヨーロッパ系白人の人口増加に反比例してアボリジニの人口は激減し、さらに1826年、副総督であったジョージ・アーサーは武力でアボリジニを追い払う権利を白人に与え、軍隊の武力をもってこれをサポートすることを宣言しました。

1830年にはアボリジニの人々をタスマン半島へ追いやり捕獲するという作戦が展開されました。

そんな中、ポート・アーサーは1830年に木場として開拓され始め、やがて造船、靴製造などが展開されます。

1833年には流刑植民地の建設が始まり、イギリス人やアイルランド人にとって最も過酷な流刑地と呼ばれるようになりました。

中でも巨木を切り出し製材する業務に従事させられるのは重労働でした。

タスマン半島はイーグルホーク・ネックと呼ばれる地峡でタスマニア本島と繋がっており、ここに哨戒灯と哨戒犬を配備した脱走監視システムはポート・アーサーを最も厳格なセキュリティ体制の流刑植民地にしていました。

1840年代半ばになると流刑囚人の数が減っていき、1877年にはポート・アーサーの刑務所も閉鎖されました。

その後、タスマン半島の自然の美しさが見直され、1880年に刑務所施設は観光施設へ生まれ変わりました。

1892年には観光客のために港も整備されました。

タスマン半島の土地は農場や果樹園へと生まれ変わり、農業がタスマン半島の基幹産業として成長します。

20世紀初頭までにタスマン半島には8つの学校も設立されました。

1987年にはポート・アーサー歴史史跡管理局が設立されました。

ポート・アーサーは、シドニーのハイド・パーク・バラックス、西オーストラリア州のフリーマントル刑務所ら他の11の施設と共に「オーストラリアの囚人遺跡群」として2010年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。

建造物名

ポート・アーサー(Port Arthur)

場所

Port Arthur TAS 7182 (地図)

Webページ https://portarthur.org.au/

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