ネッド・ケリーとは?オーストラリアで最も有名なブッシュレンジャー

黒い鉄のヘルメットと鎧。オーストラリアの歴史に詳しくなくても、この独特な姿を一度は見たことがある人もいるかもしれません。

この鎧を着て警察と銃撃戦を繰り広げた人物が、ネッド・ケリー(Ned Kelly)です。

19世紀後半のビクトリア植民地で活動したブッシュレンジャーで、銀行強盗を行い、警察官3人を死亡させ、最後はグレンローワンで警察と対峙。1880年、わずか25歳で処刑されました。

これだけを聞けば、単なる犯罪者の話に思えます。

ところがネッド・ケリーは、死後140年以上が過ぎた現在もオーストラリアで語られ続けています。映画、小説、絵画、歌の題材となり、その鎧はメルボルンを代表する歴史資料のひとつになりました。

彼を権力に抵抗した人物として見る人がいる一方、3人の警察官を死亡させた強盗犯として見る人もいます。この評価の分かれ方こそ、ネッド・ケリーという人物を理解するうえで重要です。

ネッド・ケリーって、オーストラリア版のロビン・フッドみたいな人ですか?
そう紹介されることもありますが、それだけでは実像が見えません。貧しい移民家庭と警察の対立という背景がある一方、実際に銀行強盗や殺人が起きています。英雄か悪党かを先に決めず、何が起きたのかを見るほうが面白い人物です。

この記事では、ネッド・ケリーの生い立ちからケリー・ギャング結成、ストリンギーバーク・クリーク事件、ジェリルデリー・レター、鉄製の鎧、グレンローワンでの最後の戦い、処刑、そして現在訪れることができる関連史跡まで紹介します。

目次:ネッド・ケリーとは?(クリックで開閉)

ネッド・ケリーとは?

ネッド・ケリーの本名はエドワード・ケリー(Edward Kelly)。1855年頃、現在のビクトリア州北部にあるビヴァリッジ(Beveridge)で生まれました。

オーストラリアで最もよく知られたブッシュレンジャー(bushranger)のひとりで、弟のダン・ケリー(Dan Kelly)、ジョー・バーン(Joe Byrne)、スティーブ・ハート(Steve Hart)とともに「ケリー・ギャング」を結成しました。

1878年から1880年にかけて警察の追跡を逃れながら、銀行強盗、人質拘束などを繰り返します。

1880年6月、グレンローワン(Glenrowan)で警察と最後の銃撃戦を行い、ネッドだけが生きて逮捕されました。

同年11月11日、メルボルンで絞首刑となりました。25歳でした。

そもそもブッシュレンジャーとは?

オーストラリア史でよく登場する「ブッシュレンジャー」は、日本語へ一言で訳しにくい言葉です。

もともとは、流刑植民地から脱走し、人の少ない森林地帯、つまり「ブッシュ」に潜伏して生き延びた逃亡囚などを指しました。

19世紀になると意味が広がり、ブッシュを拠点に強盗や馬泥棒などを行う武装した無法者を指すようになります。

アメリカ西部の「アウトロー」と重なる部分がありますが、オーストラリア独特の植民地社会や流刑制度から生まれた存在です。

ネッド・ケリーが活動した1870年代末は、ブッシュレンジャーの時代としてはかなり後期にあたります。

ネッド・ケリーの生い立ち

ネッドは貧しいアイルランド系移民家庭に生まれました。

父ジョン・ケリーと母エレンの間には8人の子供が生まれ、ネッドは長男でした。

一家は決して裕福ではなく、植民地社会の周縁で農業や家畜に関わりながら暮らしていました。

後のネッド・ケリーを理解するうえで重要なのが、父親の経歴です。

父親も流刑囚だった

父ジョン・「レッド」・ケリー(John "Red" Kelly)はアイルランドのティペラリー出身でした。

1841年、豚2頭を盗んだ罪で7年間の流刑判決を受け、翌1842年にヴァン・ディーメンズ・ランド、現在のタスマニアへ送られました。

1848年に刑期を終えた後、ポート・フィリップ地区へ移住し、後にエレン・クインと結婚します。

つまりネッド・ケリーは、前の記事で紹介したイギリスのオーストラリア流刑制度の次の世代に生まれた人物でもあります。

流刑囚の息子が、後に植民地政府から「アウトロー」として追われる。この背景も、ケリー物語がオーストラリア史の中で特別な位置を占める理由のひとつです。

幼少期を過ごしたアヴェネル

ケリー一家はその後、メルボルン北方のアヴェネル(Avenel)へ移りました。

ネッドはここで学校にも通っています。

少年時代のネッドには、後の「無法者」という姿からは想像しにくい逸話もあります。

10歳前後の頃、川で溺れていた年下の少年を助け、その家族から感謝の印として緑色の絹のサッシュを贈られたという話です。

このサッシュは後年、グレンローワンで負傷して捕らえられたネッドが鎧の下に身につけていたことで知られています。

父の死とケリー一家の北東部移住

父レッド・ケリーは1866年に死亡しました。

まだ少年だったネッドと家族は経済的に厳しい状況に置かれ、母エレンは子供たちを連れてビクトリア北東部のイレブン・マイル・クリーク、グレタ(Greta)とグレンローワンの間の地域へ移ります。

この一帯は、その後のケリー物語の中心となる場所です。

現在でもグレタ、ベナラ(Benalla)、ビーチワース(Beechworth)、マンスフィールド(Mansfield)、グレンローワンなどには、ケリー一家や警察追跡に関係した場所が残っています。

少年時代から警察と関わるようになる

10代になると、ネッドは警察とたびたび関わるようになります。

1869年には暴行の疑いで逮捕されましたが、この件は最終的に不起訴となりました。

翌年には有名なブッシュレンジャー、ハリー・パワー(Harry Power)の仲間ではないかと疑われ、一時拘束されます。

その後は有罪判決を受ける事件もあり、盗難馬と知りながら馬を受け取った罪では3年間服役しました。

1874年に出所した後、一時期は木材伐採などの仕事をしていますが、やがて再び馬泥棒などに関わるようになります。

アイルランド系移民と警察の対立

ネッド・ケリーの物語を複雑にしているのが、当時のビクトリア植民地の社会環境です。

ケリー家は貧しいアイルランド系カトリック家庭でした。

ネッド自身は後に、警察が自分たち一家を不当に狙い、貧しい農民やアイルランド系住民が不公平な扱いを受けていたと主張しています。

一方、ケリー家や周辺の人物が馬・牛泥棒との関係を警察から疑われていたことも記録されています。

そのため、「警察による迫害だけが原因だった」とする説明も、「単なる犯罪一家だった」とする説明も、どちらも話を単純化しすぎています。

この対立を本人側の視点から知る重要な資料が、後に紹介するジェリルデリー・レターです。

運命を変えたフィッツパトリック事件

1878年4月、ケリー一家の家を訪れた警察官アレクサンダー・フィッツパトリック(Alexander Fitzpatrick)が負傷する事件が起きました。

フィッツパトリックは、ネッド・ケリーに撃たれたと証言しました。

しかしネッドは、自分はその場にいなかったと一貫して主張しています。

後に警察官3人が、ネッド本人から事件への関与を認める発言を聞いたと証言しており、事件の正確な経緯は現在も決着していません。

事件後、弟ダンは逃亡。母エレンらは逮捕され、実刑判決を受けました。

ネッドとダンには逮捕状が出され、2人は森林地帯へ逃げ込みます。

ケリー・ギャングの4人

逃亡中のネッドとダンに、友人のジョー・バーンとスティーブ・ハートが加わりました。

人物役割・特徴
ネッド・ケリーギャングの中心人物
ダン・ケリーネッドの弟
ジョー・バーンネッドの親しい仲間。読み書きにも長けていた
スティーブ・ハート若い騎手として知られた仲間

この4人が、後に「ケリー・ギャング」としてオーストラリア史に名を残します。

ストリンギーバーク・クリークで警察官3人が死亡

ケリー物語で最も重大な転換点となったのが、1878年10月26日のストリンギーバーク・クリーク(Stringybark Creek)事件です。

ネッドとダンを捜索していた警察隊とケリー・ギャングが森林内で遭遇しました。

銃撃の結果、警察官マイケル・ロニガン(Michael Lonigan)、マイケル・スキャンロン(Michael Scanlon)、トーマス・ケネディ(Thomas Kennedy)の3人が死亡。

トーマス・マッキンタイア(Thomas McIntyre)巡査だけが脱出し、マンスフィールドへ戻りました。

ネッドは後に警察側が先に自分たちを殺そうとしていたため自衛したと主張しましたが、3人の警察官が死亡した事実は、その後のケリー・ギャング追跡を大きく変えます。

「アウトロー」に指定される

事件後、ビクトリア植民地政府はケリー・ギャングを法律上の「アウトロー」として追跡しました。

ネッド、ダン、ジョー・バーン、スティーブ・ハートにはそれぞれ懸賞金がかけられます。

当初500ポンドだった1人あたりの懸賞金は、その後さらに引き上げられました。

警察は北東部ビクトリアで大規模な捜索を続けましたが、地形を熟知していたギャングをなかなか捕らえることができませんでした。

地元住民の中にケリー一家へ同情する人や、警察に情報を提供しない人がいたことも追跡を難しくした要因のひとつでした。

ユーロア銀行強盗

逃亡中の1878年12月、ケリー・ギャングはユーロア(Euroa)近郊の牧場を占拠しました。

そこにいた人々を拘束した後、ネッドらはユーロアのナショナル・バンクへ向かい、現金や金など約2,000ポンドを奪いました。

興味深いのは、人質を殺害せずに多数を拘束しながら強盗を行うという方法です。

後のジェリルデリーでも似た手法が使われています。

これが「一般人には危害を加えない義賊だった」という後世のイメージにつながった面もありますが、人々を武器で脅して拘束した強盗事件だったことに変わりはありません。

ジェリルデリーを占拠して銀行強盗

1879年2月、ギャングはビクトリア州境を越え、ニューサウスウェールズ州の小さな町ジェリルデリー(Jerilderie)へ入りました。

警察官を拘束して警察署を占拠し、警察の制服まで着用。

その後、ニューサウスウェールズ銀行を襲い、2,000ポンドを超える現金などを奪いました。

周辺の住民数十人もホテルへ集められ、事実上ギャングが町を一時的に掌握した状態になりました。

しかしネッドには、銀行強盗以外にもうひとつ目的がありました。

8,000語を超えるジェリルデリー・レター

ネッドは、自分の主張を新聞などを通して公表したいと考えていました。

そこでジョー・バーンに口述筆記させたのがジェリルデリー・レター(Jerilderie Letter)です。

56ページ、8,000語を超える長大な文書で、ケリー一家と警察の関係、フィッツパトリック事件、ストリンギーバーク・クリークでの警察官死亡事件などについて、ネッド自身の立場から説明しています。

文章には怒り、恨み、脅迫的な表現も多く含まれています。

そのため単純な「政治宣言」と考えるより、ネッド・ケリー本人が自分の行動をどう正当化しようとしたのかを知る一次資料として読むのが適切でしょう。

オリジナルのジェリルデリー・レターは現在、ビクトリア州立図書館(State Library Victoria)が所蔵しています。

なぜネッド・ケリーを支持する人がいた?

殺人と銀行強盗を行った人物でありながら、なぜネッドに支持者がいたのでしょうか。

背景には当時の土地制度や社会階層、警察への不信、アイルランド系カトリック住民とイギリス系支配層との緊張など、複数の要素がありました。

小規模農民の中には、警察や大地主側よりケリー一家へ同情的な人もいました。

またネッド自身がジェリルデリー・レターなどで「自分たちは不当に扱われている」という物語を積極的に発信したことも、後のイメージ形成に影響しています。

実際、死刑判決後には助命を求める大規模な運動も起こりました。

一方で、ストリンギーバーク・クリークで死亡した3人の警察官や、その家族の立場から見れば、まったく異なる歴史になります。

ネッド・ケリーが現在まで議論されるのは、こうした複数の視点が同時に存在するからです。

なぜ鉄の鎧を作った?

ネッド・ケリーと聞いて真っ先に思い浮かぶのが、頭部をすっぽり覆う鉄製の鎧です。

実は鎧を持っていたのはネッドだけではありません。

ネッド、ダン、ジョー、スティーブの4人全員が、それぞれ鉄製の鎧を用意していました。

鎧は農業機械に使われる厚い鉄板などから作られています。

誰がどこで製造したのかについてはさまざまな説がありますが、現在も確定していません。

銃弾から胴体と頭部を守り、警察との正面からの銃撃戦に耐えることが目的でした。

鎧の重さは約44キロ

ビクトリア州立図書館が所蔵するネッドの鎧は、鉄製で重さ約44キロ。

ヘルメット、胸当て、背中の板、肩部分などで構成されています。

実際に警察の銃弾は鎧へ何発も当たりましたが、厚い鉄板によって致命傷を免れています。

ただし大きな弱点がありました。

脚が完全に露出していたのです。

しかも40キロを超える鉄を身につければ動きは鈍くなり、視界も狭くなります。

最終的にはこの弱点を警察に狙われ、ネッドは脚を撃たれて倒れました。

グレンローワンで計画した列車脱線

1880年6月、長い逃亡生活を続けていたケリー・ギャングは最後の大きな行動に出ます。

ジョー・バーンは6月27日、警察へ情報を提供していた旧友アーロン・シェリット(Aaron Sherritt)を殺害しました。

ネッドたちは、この知らせを受けた警察がメルボルン方面から列車で北上すると予想。

グレンローワン付近の鉄道線路を外し、警察官を乗せた特別列車を脱線させる計画を立てました。

さらにアン・ジョーンズの宿屋を占拠し、周辺住民らを人質として集めます。

この列車脱線計画が成功していれば、多数の死者が出た可能性もありました。

計画を阻止したトーマス・カーナウ

ケリー・ギャングは住民を宿屋に拘束しましたが、教師トーマス・カーナウ(Thomas Curnow)とその家族らが外へ出ることを許されました。

カーナウは線路が外されていることを知っていました。

そこで列車が近づくと、赤い布などを使って運転士へ危険を知らせます。

列車は停止し、脱線計画は失敗しました。

警察はグレンローワンへ到着し、宿屋を包囲します。

ここからケリー・ギャング最後の戦いが始まりました。

1880年、グレンローワン最後の戦い

1880年6月28日未明、グレンローワンの宿屋周辺で警察とケリー・ギャングの銃撃戦が始まりました。

ジョー・バーンは銃撃を受けて死亡。

ダン・ケリーとスティーブ・ハートは宿屋に残り、最終的に建物が火に包まれた後、遺体で発見されました。

宿屋には多数の人質がいたため、銃撃戦では一般人にも犠牲者が出ています。

ケリー・ギャングだけが危険にさらされていたわけではなかったことも、この事件を見るうえでは忘れてはいけません。

鎧を着たネッド・ケリーが霧の中から現れる

グレンローワンで最も有名な場面は、夜明け近くに起きました。

一度宿屋周辺から離れていたネッドが、鉄の鎧を身につけたまま警察の前へ姿を現したのです。

当時の警察官にとって、銃弾を受けても倒れない鉄の人間が薄暗い中を歩いてくる光景は、見たことのないものでした。

警察は何度も発砲しましたが、胴体への銃弾の多くは鎧に阻まれました。

しかし鎧に覆われていない脚を撃たれ、ネッドは倒れて捕らえられます。

ケリー・ギャング4人のうち、生きてグレンローワンを出たのはネッドだけでした。

メルボルンでの裁判

負傷したネッドは治療を受けた後、裁判にかけられました。

1880年10月28日から29日にかけてメルボルンで行われた裁判では、ストリンギーバーク・クリークで警察官トーマス・ロニガンを殺害した罪が審理されます。

陪審は有罪評決を出しました。

裁判官はレッドモンド・バリー(Redmond Barry)。ネッドに死刑判決を言い渡します。

判決後には助命を求める請願運動が行われましたが、死刑は変更されませんでした。

25歳で処刑

1880年11月11日、ネッド・ケリーはメルボルンの刑務所で絞首刑となりました。

現在のオールド・メルボルン・ジェイル(Old Melbourne Gaol)です。

年齢は25歳でした。

2年ほど前まではビクトリア北東部の若者だった人物が、警察官殺害、銀行強盗、史上最大級の捜索、鉄の鎧を使った銃撃戦を経て、植民地で最も有名な囚人のひとりとして処刑されました。

しかしネッド・ケリーの物語は、ここで終わりませんでした。

むしろ彼が伝説的な人物になったのは、死後のことです。

「サッチ・イズ・ライフ」は本当に最後の言葉?

ネッド・ケリーの最後の言葉として非常に有名なのが、「Such is life(人生とはそういうものだ)」です。

オーストラリアではネッドを象徴する言葉として、土産物やTシャツなどにも使われています。

ところが、ネッドが処刑直前にはっきり「Such is life」と言ったことを裏付ける同時代の確実な記録はありません。

オーストラリア人名辞典では、処刑時の言葉として記録された別の発言が、後の新聞記事などを通して「Such is life」という形で伝えられるようになったと説明されています。

つまり有名な言葉ではあるものの、「確実な最後の言葉」と断定するのは避けたほうがよいでしょう。

ネッド・ケリーには、こうした「史実」と「後から生まれた伝説」が混ざったエピソードが数多くあります。

なぜ今も有名なのか

ネッド・ケリーが現在まで語り継がれている理由は、単に銀行強盗として有名だったからではありません。

鉄の鎧という強烈な見た目、若くして処刑された人生、自分の主張を長文で残したこと、警察と植民地政府への抵抗、アイルランド系移民という背景など、物語性の強い要素が重なっています。

さらに事件当時から新聞報道が盛んで、写真も残りました。

死後には小説、演劇、映画、絵画などによって繰り返し物語が作り直されます。

その結果、歴史上のエドワード・ケリーと、文化の中でつくられた「ネッド・ケリー像」が少しずつ分かれていきました。

映画・文学・美術に残るネッド・ケリー

ネッド・ケリーは、オーストラリアの芸術にも大きな影響を与えました。

1906年にはケリー・ギャングを題材にした映画「ザ・ストーリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング(The Story of the Kelly Gang)」が公開されています。

20世紀には画家シドニー・ノーラン(Sidney Nolan)が、四角い黒いヘルメットをかぶったネッドを描いた一連の作品を制作。

この姿は現在ではオーストラリア美術を代表するイメージのひとつになっています。

さらに小説、映画、音楽でも何度も題材にされ、「実在したブッシュレンジャー」から「オーストラリア文化の象徴的キャラクター」へ変化していきました。

旅行でネッド・ケリーの歴史をたどる

ネッド・ケリーは19世紀の人物ですが、関連する場所は現在もかなり残っています。

場所見どころ
ビクトリア州立図書館ネッド本人が着用した本物の鎧、ジェリルデリー・レターなど
オールド・メルボルン・ジェイルネッドが収監され、処刑された刑務所
グレンローワン1880年の最後の銃撃戦と逮捕の舞台
ベナラケリー一家や警察に関する多くの史跡が残る
ビーチワース裁判所や刑務所などケリー家に関係する歴史地区
ストリンギーバーク・クリーク1878年に警察官3人が死亡した事件の現場周辺

初めてなら、メルボルン市内の2か所とグレンローワンを押さえるだけでも、かなり理解が深まります。

ビクトリア州立図書館|本物の鎧を見る

ネッド・ケリーに興味があるなら、最もおすすめしたい場所がメルボルン中心部のビクトリア州立図書館です。

ここにはネッド本人が1880年のグレンローワンで着用した鎧が保存されています。

レッドモンド・バリー・リーディング・ルーム(Redmond Barry Reading Room)で一般公開されており、2026年9月現在、展示予定は2028年12月31日まで。

入場は無料です。

図書館は通常毎日午前10時から午後6時まで開館しています。

鎧だけでなく、ジェリルデリー・レター、ネッドのブーツ、ライフル、デスマスクなど、図書館は非常に充実したケリー関連資料を所蔵しています。

メルボルン・セントラル駅の目の前なので、旅行者でも立ち寄りやすい場所です。

オールド・メルボルン・ジェイル|処刑された場所

ビクトリア州立図書館から徒歩圏内にあるのがオールド・メルボルン・ジェイルです。

ネッドはグレンローワンで逮捕された後、ここへ収監され、1880年11月11日に処刑されました。

現在は博物館として公開され、刑務所の独房や当時の刑罰制度について学ぶことができます。

2026年9月現在、通常の開館時間は毎日午前10時から午後5時。クリスマスとグッド・フライデーは休館です。

一般入場料は大人38豪ドル、子供5~15歳22豪ドル。

週末の指定時間には「ネッド・ケリーズ・ラスト・スタンド(Ned Kelly's Last Stand)」というガイドツアーも行われ、一般入場券に5豪ドル追加で参加できます。

ビクトリア州立図書館とセットで訪れると、本物の鎧とネッドが最後の日々を過ごした場所を半日程度で見ることができます。

グレンローワン|最後の戦いの現場

ネッド・ケリーの歴史を現地でより深く知るなら、グレンローワンがおすすめです。

メルボルンから北東へ車で約2時間30分。

ここが1880年6月の最後の銃撃戦の舞台です。

現在はネッド・ケリー・ディスカバリー・ハブ(Ned Kelly Discovery Hub)があり、映像、写真、証言などを使ってグレンローワン事件を複数の視点から紹介しています。

2026年9月現在、午前10時から午後4時まで週7日営業。一部祝日を除きます。

入場料は大人6豪ドル、コンセッション4豪ドル、17歳未満は無料です。

施設の展望エリアからは実際の包囲戦が行われた地域を眺めることができます。

周辺にはグレンローワン・ヘリテージ・シージ・ウォークが整備され、宿屋跡、鉄道路線、ネッドが捕らえられた場所など、事件に関係する地点を歩いて回れます。

単なる「ネッド・ケリー観光地」ではなく、警察、人質、地元住民などを含めて事件全体を知る場所として整備されているのが現在のグレンローワンです。

英雄か犯罪者かでは終わらないネッド・ケリー

ネッド・ケリーについて調べ始めると、すぐに「英雄だったのか、悪党だったのか」という問いに行き着きます。

しかし実際の歴史は、それほど単純ではありません。

彼が貧しいアイルランド系家庭に生まれ、警察や植民地社会との激しい対立の中で育ったことは事実です。

自分たち一家が不当に扱われたと考えていたことも、ジェリルデリー・レターからはっきり読み取れます。

その一方で、3人の警察官がケリー・ギャングとの衝突で命を落とし、銀行強盗、人質拘束、列車脱線計画などが実際に行われました。

そこを無視して「権力に立ち向かった英雄」とだけ説明することもできません。

歴史上のネッド・ケリーと、後世につくられたネッド・ケリー伝説を分けて見ると、この人物がずっと興味深く見えてきます。

そしてオーストラリア旅行者にとって面白いのは、その歴史が現在も実際の場所とつながっていることです。

メルボルンでは本物の鎧を間近で見ることができ、数分歩けば処刑された刑務所へ行けます。

さらに北へ向かえば、グレンローワンの最後の戦いの現場を自分の足で歩けます。

鉄の鎧だけを知っていた人でも、こうした場所を訪れた後には、ネッド・ケリーが「オーストラリアで有名な昔の犯罪者」だけでは説明できない人物だったことがわかるはずです。

よくある質問

ネッド・ケリーとは何をした人ですか?

19世紀後半のビクトリア植民地で活動したブッシュレンジャーです。弟ダンらとケリー・ギャングを結成し、銀行強盗や人質拘束などを行いました。1878年には警察官3人が死亡したストリンギーバーク・クリーク事件に関与し、1880年に逮捕、処刑されました。

ネッド・ケリーは英雄だったのですか?

評価は現在も分かれています。植民地当局や警察に抵抗した弱者側の人物として支持する見方がある一方、警察官3人の死亡、銀行強盗、人質拘束などに関与した犯罪者だったことも事実です。ビクトリア州立図書館なども、単純な英雄・悪党という二択ではなく、両方の視点を紹介しています。

なぜネッド・ケリーは鉄の鎧を着ていたのですか?

警察との銃撃戦で頭部や胴体を銃弾から守るためです。ケリー・ギャング4人全員が鉄製の鎧を用意しました。ネッドの鎧は約44キロありましたが、脚は守られておらず、最終的に脚を撃たれて捕らえられました。

ネッド・ケリーの本物の鎧は現在もありますか?

はい。ネッド本人がグレンローワンで着用した鎧はビクトリア州立図書館が所蔵しており、2026年現在、レッドモンド・バリー・リーディング・ルームで無料公開されています。

「Such is life」はネッド・ケリーの本当の最後の言葉ですか?

有名な言葉ですが、処刑直前に本人がそのまま発言したことを確実に裏付ける同時代記録はありません。後世の新聞記事などを通じて「Such is life」が最後の言葉として広く定着したと考えられています。

ジェリルデリー・レターとは何ですか?

1879年にネッドがジョー・バーンへ口述筆記させた56ページ、8,000語を超える文書です。ケリー一家と警察の関係や、ネッド自身の行動について本人側の主張が書かれています。現在はビクトリア州立図書館がオリジナルを所蔵しています。

ネッド・ケリーは何歳で亡くなりましたか?

1880年11月11日に25歳で処刑されました。出生年について古い資料には若干の違いがありますが、現在は1855年頃の生まれとされています。

メルボルンでネッド・ケリー関連の場所を見られますか?

はい。ビクトリア州立図書館では本物の鎧を見ることができ、近くのオールド・メルボルン・ジェイルはネッドが収監、処刑された場所です。どちらもメルボルンCBD内にあり、徒歩で組み合わせて訪れることができます。

グレンローワンはメルボルンから日帰りできますか?

車ならメルボルンから約2時間30分で、日帰りも可能です。ネッド・ケリー・ディスカバリー・ハブや包囲戦の史跡を巡ることができます。ベナラ、ビーチワースなど北東部ビクトリアの歴史的な町と組み合わせ、1泊以上する旅行にも向いています。

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